うーはここで色々かくつもり

しがない学生。二次元が理想過ぎて三次が見れない。作家になる為日々精進。

うちのウッディもバズももう喋らない【Toy Story 4・感想】

 夏になって少し時間ができたので、読書したりゲームしたりしている。欲しいままに物買ってると、気付いたら買ったまま手を付けてない本やソフトが貯まってて…。

 つい先日『NieR: Automata』とりあえず通しではクリアしました。

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9S選んでDルート見ました

 とにかく映像が綺麗、漂白された世界観が綺麗、2Bたちアンドロイドが綺麗。周回プレイによって次第に明かされる真実の残酷すらも美しい。なにより2Bがホントに肉感的なんですわ。

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2Bこと「ヨルハ二号B型」

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 エンディングがA~Zまであったり、まだクリアしてないサブクエストもちょこちょこあるので、シナリオのある部分は一通りプレイしたいと思う。

 さて、冒頭の挨拶はここまでということで、今日も映画鑑賞のはなし。

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 『Toy Story 4』観ました。

 9年前・まだアンディの下にいた頃、ウッディとボー・ピープは、雨の中で外に放置されたラジコンカーのRCが流されてしまうところを危うく助ける。だが、その直後にポーは電気スタンドや羊のおもちゃと共に他所に譲られてしまう。

 ウッディたちがボニーの下に譲られてから2年、ウッディが遊び相手のおもちゃに選ばれることが少なくなっていた中、ボニーが幼稚園に通うことになる。体験入園を前に不安がるボニーを支えるため、ウッディは幼稚園行きのリュックに忍び込む。幼稚園に馴染めないボニーをウッディが陰ながらサポートした結果、ボニーは工作の作品として先割れスプーンのおもちゃ「フォーキー」を作り出した。

 トイストーリーシリーズ、1作目が1995年ともう20年以上続いているんですね。1と2は幼い頃にVHSで何度も何度も観ていた記憶がある。今でもウッディとバズの人形は捨てずに取っておいてるくらいで、個人的にトイストーリーはディズニーアニメの中で一番思い入れのある作品だったりする。

 9年前に3が発表されたときにも驚いたのですが、いよいよ4まで続くなんて。PIXAR作品を映画館で観るのも久々だったのですが、冒頭のPIXARロゴに始まり、トイストーリーお馴染みのテーマが流れてくるとそれだけで感慨深い思いになりますね。時間の流れを感じるとともに、変わらないものも感じるのさ。

 新しいおもちゃ・フォーキーに世話を焼いたり、ボーと再会したり、新たな出会いがあったりとウッディは今回も大冒険をするのですが、今回はいつもに増して外の世界に出る。なにしろ、今回の舞台としてボーが居る場所、つまりおもちゃたちの帰る場所がキャンピングカーなので、見知らぬ世界がすぐそこにある状況設定になっている。フォーキーはすぐ逃げようとするし。また、誰に所有されるでもない、外の世界に生きるおもちゃたちも現れる。

 作中深く感じたのが、今回はウッディたちを「おもちゃとして」よりも「一人のキャラクターとして」動かす色のほうが強いという点。「子どもたちの物である」というおもちゃの在り方から外れたものを描いているだけでなく、おもちゃたちが意思を持って人間に干渉するシーンが多い。勿論「動いている姿を見せてはならない」原則は変わらず守られているが、(おもちゃの機能として備わっている発声ではない)喋っている声を人間に聞かせるという、過去作には数えるほどしかない展開が何度か出てくる。一方で、ボイスボックスが故障していて子どもに遊んでもらえない人形ギャビー・ギャビー(おもちゃ同士で喋れないわけではない)が、ウッディの発声機能を奪おうとする展開があるというのが、先述したものを余計に際立たせる。

 ラストにあるウッディの決断、「ボニーのもとを去って、ボーと共に外の世界を生きる」というのが話題になっているそうですが、今までの『1・2』『3』でウッディが経た冒険の経緯を考えると、テーマ性の流れとしては自然だと思うんですよね。(続編ものという作劇上の都合もあるが、)次第に大きくなっていく冒険の舞台、3においては遂にアンディの下を離れたわけで、今回のラストを観てこのシリーズはウッディを外の世界に出したかったんだと納得がいった。先の述べた「おもちゃとしてではなく一人のキャラクターとして」という描き方も、これと合致する。

 とはいえ何か引っかかるのも分かる。ボク個人の中のそれを分析すると、その理由はやっぱりこの物語を「子どものアンディの視点」で観てるから(もしくは「観たいから」)じゃないだろうか。1作目から観てると、おもちゃで遊んだ幼少期の経験がある我々にとっては、やはりウッディとアンディの関係性が観ていて一番心地良いんですよ。心地いいから今でもウッディとバズの人形保存してる。

 3においてアンディも大学生になり、ウッディはアンディと別れる。時の流れを考えれば当然のことです。でも、観ていてボクはちょっと悲しかった。

 そして今回の4ではアンディは回想にしか出てこない。で、当のウッディがアンディのこと引き摺ってるんですよ! こういう描写を観た時、「あ、ボクも今この映画アンディになったつもりで観てるかも」と気付かされた。

 でも、一人の人格あるキャラクターとして今回ウッディを描いたとき、ウッディは遂に外の世界で生きることを決める。逆に考えると、3でアンディの下から離したのは今回のラストを見越して多少衝撃を抑えるためだったのかなとか思う。だってアンディとウッディの別れが今回の流れだと、流石に悲しすぎるし…。

 女選んで皆と別れたように見える? まあわかるっちゃわかる。

 

 『トイ・ストーリー』シリーズとしてはひとまず今回で最後になりそうな『Toy Story 4』。思うところは人によりけりだとは思いますが、門出のような気持ちで観ると良いですね。